初夏のアテネは美しい街だったな。青い空に、明るくやさしい人々。歴史の遺産に満ちた世界。学生時代の詰め込受験勉強的授業のせいで、歴史に興味の持てなかった私はトルコで歴史の面白さを知り、アテネの本屋でアトラスっていう歴史と地図を混ぜた本を買ったよ。よく思うんだが教育は大事だよな。私の通ってた高校は、横浜では結構名の知られたミッション系の進学校だったのだが、高校2年にしてやっと自我に目覚めた私にとっては、実は苦痛以外の何物でもなかった。幸い教師の半数近くはカナダ人のブラザー(フランシスコ・ザビエルみたいな人達)で彼等の人間性は面白かったがね。屋上展望台にあった無線部の部室でたばこを吸ってた僕らをスマートに見逃してくれたマルセル先生、お変わりないですか?カナダに戻られたガブリエル・サンタマン先生はお元気でしょうか?以上、業務連絡。
学校における教育に話を戻そう。
日本においては、各種の試験をパスするための技術を教えるということが中心になっているような気がするんだな。その試験の頂点が大学入試であり、そこさえパスすれば目的は達せられたということになる。結果、大学では遊んで暮らすことになる。学歴重視の社会だから、良い大学というブランドを手に入れれば、良い会社、官僚への道が自動的に約束されるというわけだな。私は天の邪鬼だったから、通っていた学校はバリバリの進学校だったにもかかわらず、大学受験のための勉強はしないと自分で決めた。でも、勉強は好きだったから、毎日図書館へ通って自分の好きな勉強をしたよ。おかげ様で人様に誇れる学歴は、ナンニモなーい。今でもそうだが、基本的に私は勉強好きなんだな。もともと真面目な性格なせいもあろうが、飛行機乗りだった親父の影響もあるだろう。父はその仕事柄、しょっちゅう試験やら審査があったし、50代半ばで航法士から航空機関士へ職種転換するということもあったせいで、仕事から戻って家に居るときはいつも、机に向かって勉強していた。そうした親父の背中を観て育ったからなのかな。
しかしソレに対してだ、 昼間は寝ぼけてて、夜になるとごそごそ起きだしきてコンピュータに向かって音楽ゲームしてるだけのように見えてるんだろう、現在の私。そんな背中しか見てない俺の子供達は、いったいどう育つんでしょうかね。あのねパパはね、遊んでるんじゃなくて、こう見えてもこうして音楽創ってお仕事してるのよ、本当は。たしか。きっと。たぶん。まあ、たいていは。
ごめん。実は遊んでたかもしれん。
子供の頃に読んだ本に、カンボジアのアンコール・ワットについて書かれたものがあった。ジャングルの中に忽然と姿を現わした壮大な遺跡を、いつかこの目で見てみたいものだと思っていたが、長く続いた内乱のせいで、貴重な文化遺産は今やボロボロの状態であるらしい。狂気の政治教育の下、ポルポトの子供たちは、密告と殺人を日常とするロボットとして育てられてしまったと聞く。そろそろ彼等は私達と同世代の大人として、これからのカンボジアを再建する担い手となっているはずである。いったい、幼いうちに吹き込まれた思想や異常な常識に歪められた精神は、平和な世の中に適応する正常な人間のそれを、無事取り戻せるのだろうか。
子供達に正しい教育を与えるのは人類の務めだ。受験教育のことぢゃないぜ。学問の面白さを伝えずしてなにが教育だよな。中でも科学は大事だぜ。いまさら物々交換と採集生活には戻れないんだから、この先、どんどん増える人口を支えて人類が生き延びるには、よりいっそうの科学の進歩を促すしかないんだよ。私が考える科学というものは、それ自体の存在意義すら疑ってかかる自省的な学問であるからして、科学万能などという思い上がりにさえ走らなければ、生き存えることという人類の目標に対して、ある程度明快なひとつの解答を導き得るはずのものなんだ。世の中、ロジックだけで割り切れるものでもないし、もちろん感情も大事だけれど、そこんとこは世の中に女性がいる限り、十分バランスがとれると思うわけよ。
高校で私が教わった漢文の教師はとてもおっかない人であった。別に暴力を振るうわけでもなく、ただむっつりしてるだけなんだけど、凄い威圧感があったんだな。で、彼の授業はというと、生徒に白文(ふりがなとかレ点のついていない漢語の平文)をノートに写させてそれを順番に読ませるだけ。当時はすげえ手抜きの授業だと思っていたけど(ま、確かに手抜きだが)、白文を読むためには自分で予習して漢文の意味をくみ取り内容を理解せねばならないわけで、実は一番効果的な方法だったんだな。
これが例えば歴史だと、その時代の文化背景においてどのような思想と産業が関係して社会の情勢が変化してきたか、っちゅうようなことが大切なはずだろ? しかし、歴史の年号を覚えることにどんな意味があるっていうんだい? 数学や物理はロジカルなものだから、その方法論を教えるだけでも構わないさ。そこに興味を持った者は勝手にどんどん勉強するだろう。ただし計算が速くできるかどうかなんてのは下らないことだよな。そんなもん、算盤か卓上計算機を使えばいいのさ。大事なのはどうやって考えて、どう解くかってことさ。そこんとこに重点を置いた教育がなされていないから、日本にはコンピュータのCPUを造れる天才が生まれてこないし、ショーコーショーコーアサハカショーコーに騙されるようなおばかさんが出て来ちゃうのぢゃ、ってまた爺になっちゃった。でも、クレバーとワイズは違うんだってば!
んで、ワイズかもしれない私は、残念ながら決してクレバーでもなかったせいか、アテネでアテニしていた船の仕事にはありつけなかったのさ。港へ行って船会社をいくつか、あたってはみたよ。でも、船員手帳も持ってない素人を船が雇う訳ないじゃんか。ちょっと考えりゃ、わかるだろ!
つづく